子育て、インナーチャイルド育て

海外での子育て&私の産後うつ記録

海外で子育てをしながら、昔の母を想う。

私は現在、オーストラリアで子供を生み、

主に夫婦二人で育てている。

 

義両親はこちらに住んでいるのだが

80近くの高齢のため、

口が裂けても手伝ってくれとは言えない。

 

また、私の両親に頼って日本に里帰りするという

発想は一切なかった。

 

というよりも最近までは

色んな状況などもあって

親とは音信不通にしていた。

 

音信不通に至るまでの親子関係の経緯は

本当にたくさんあるのだが

自分自身を振り返る意味でも

今日はその一部を書いてみようと思う。

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私の生まれ育った家庭環境は本当に危険で

早くこの環境から逃れたくて仕方なかった。

 

大学3年生ぐらいの頃に家を出てから

両親とはもう同じ屋根の下で暮らしたことはない。

また、私は日本を離れ

海外で過ごす日々が、

気づけばかれこれ10年以上になる。

 

初回の投稿でも書いたが

私は母からしばしば

今であれば虐待とも言える行為を受けてきた。

 

ときに、布団叩きで1時間近く殴られ、

また、ときには、そろばんが割れるほど

頭を叩かれたこともある。

 

母はひとたび私を殴り出すと

自分でもコントロールできないような

そんな大きなエネルギーだったように思う。

 

まだ幼稚園ぐらいの幼かった私は

布団叩きで殴られている間、

抵抗することはもちろんできず、

覚えていることと言えば

体育座りで必死で体を守りながら

その大きな負のエネルギーを

受け取り、じっと耐えていた。

 

小さかった私には

それが精一杯だったのだろう。

 

それに加えて、

私の家庭内では常に

不穏な空気が流れていた。

 

いつ始まるか分からない、

そしていつ終わるか分からぬ夫婦喧嘩。

 何が地雷なのかも全く分からない。

それは本当にひどいものだった。

 

激しい夫婦の言い争い。

父親を寝かせまいと

夜中のテレビの大音量と掃除機をかける音。

怒声、罵声、お皿が割れる音。

お酒を飲んで暴れる母の姿。

父の服を切り刻む母の姿。

首吊りをして死んでやるとわめく母。

リストカットで血で染まったフローリング…。

そんな二人を必死で止めようと

泣きわめく私たち兄弟…。

 

今こうして書いていると

色んなシーンが錯綜する。

 

ある時は

夫婦喧嘩に嫌気がさして家を出て行った父親に

我慢できなかった母は半狂乱で

「父親を探してこい!」と

私たち兄弟を夜中に追い出した。

そして私たち兄弟は夜のバスに乗り

父の事務所まで行ったが父はそこにはいなかった。

家に帰ることもできない私たちは

朝までずっと父親の事務所の前で

突っ立っていたこともあった。

 

そんな家庭で育った私たちは

常に緊張し、怯えていた。

 

私たちは両親の間に挟まれながら

またいつ怒声、罵声が飛び交うのか

いつもビクビクしていたし

自然と親の顔色を伺って過ごすようになっていた。

 

 

そんな両親の下で育った私は

成人したら早く

この家から逃れることだけをずっと望んでいた。

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今思ってもこの家庭は本当に危険だったと思う。

 

しかしいざ、

自分が子育てをする立場になり

不思議と母親の風景が目の前に現れて、

彼女の心の風景がどんなものだったのか

手に取るように感じられてしまっている自分がいるのだ。

 

皮肉にも私は

母と同じように周りに誰も助けてくれる身内がいない

同じような環境で子育てをしている。

 

妊娠、出産による急激な体と心の変化。

その変化についていけず情緒不安定な日々。

それでも待ったなしの24時間の子育て。

そんな毎日の中で話す相手もいなく、

密室で一人だけで子供と向き合う閉塞感…。

唯一、頼りたいと思っているパートナーからは

男女の感覚の違いを分かってもらえず、

それにまた苦しみいらだつ日々…。

母という名の下で、

私個人の人権はまるで無視されるような生活。

 

虐待は決して許されるものではないし

あの時のことを

幼かった頃の私は決して許すことはないだろう。

 

しかし、母と同じ条件で子育てをしながら

日々、必死で苦しみ、もがいている今の自分は

不思議なことに

過去の母と全く同じ痛みを

今、分かち合っているような気持ちになってしまう。

 

私を虐待したということは

それ以上に母自身が虐げられるような

とても過酷な環境にいたのだろう。

そんな理解が私に突然やってきた。

 

そんな母のことを想うと

母をただぎゅーっと抱きしめたい。

 

そんな気持ちになってしまうのだった。